昭和四十八年八月二十三日 朝の御理解


御理解第七十六節
「人間は人を助けることができるのはありがたいことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることができぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ。」


 信心させて頂くものの心得、人の難儀を助ける事が有り難いと心得て信心せよ、愈々報ゆる心、神徳を愈々神心が強うなって来る、おかげを蒙らなければ、只、表面的、形の上で、助けるという様な事は出来ます、例えば、牛馬が出来ない様な事を人間は出来ます。
 けれどもそれは、助けた様であって、実は本当は助ける事にならない場合があるのです、例えば、金に難儀しとる人に金を恵んでやる、成る程、その時は助かったと云うて、それが喜ばれるんでございますけれども、本当はその人を助けるという事にはならないのです。
 ですから、そう云うところも勿論手前の所では、助けるという事は云えましょうけれども、今日は、ここでは真実人が助かるという事、人の難儀を助ける、これはもう、人間でなからなければ、人間でなからなければ出来ない御用。
 けれども自分自身が、助かっておらずして、助けるという事も出来ない、自分自身が助からせて頂こうという精進、助かってしまわなければならないという事だけれども、自分が助かっておるその過程。
 真実自分が助かるという過程にある人がです、例えば、同病相憐れむ、色々の悩み、苦しんでいる人達の上にです、私は、そういう悩みの中から、今日信心してこういう風に助かっておる、助かってしまっておるとは云えないけれど、助かっていっておる。
 ですから、ご信心をなさって助かってある、例えばお導きさせて頂く、例えば、真実の助かる事の為に、奉仕するという事になるのじゃないでしょうか。
 今日はだから、そういう意味で、心の上で先ずは自分が助かる、様々な難儀の中にあって、難儀が難儀ばかりと思うておったものが、難儀ではない、ご神慮が判り、御神意を感じさせて頂くようになって、これを難儀と感じなくなるという事は、もうその人が助かっていっておるというしるしだ、そういう心の状態におかげを受けられるというのが、お道の信心なのです。
 だからお互い、果たしてです、人の難儀を助ける事が有り難いと心得て信心せよとおっしゃるが、そういう心を心得て、果たして信心の稽古をしておるだろうかと、先ずそこを一つ思うてみねばなりません。
 続いて、この七十六節の前、七十五節の所に、人を殺すと云うが、心で殺すのが重い罪じゃという事を教えてありますね、人の心をそれこそ、切り刻みする様に、いわば心で殺す、心でいわば、相手を人を傷付ける、または殺す、そう云うのは、神が見ておると、だから、そういう心で殺すのが重い罪じゃと、七十五節で教えておられます様に、だから、心で助けるという事は、やはり、誰も知らんのである。
 けれども、心で助けるという事は、それこそ神が見ておいでである、だから、これが殺せば、神が見ておる、だから、それが怖い事だと仰せられる様に、心で人を助けられるほどしの心、心にそういう力を受ける、心に云うならばお徳を受ける、そして、心で助けていけれる、神の恵みが れる訳でもない、痛いからと、撫でさすりしてやる訳でもない、けれども、心で助けれるという事は、信心で助け合うという事だと思う。
 信ずる、信心とは、信ずる心です、自分が助かって行っているその有り難さを愈々神様の有り難さを判からして貰う、信心させて貰う、その心が、その心で、人を助ける事を有り難いと心得て信心させて貰う。
 昨夜、田主丸の共励会から、文男先生が帰って参りましてから、いつもの事ですけれども、私の部屋に参りましてから、2時半もありましたでしょうか、御用を頂いて、もう2時過ぎまでではなかったでしょうか、その御用をして貰いながら、私が文男先生に話す事なんですけども、私がこの頃話す事が大変難しい事なんだ、もう本当に難しい事なんだ、けれどもそれは実に分かりやすい、それこそ、神様の知恵を持ってお話しをしておるから、皆が成る程なる程と合点が行く事であるけれども、実際問題としては、難しい事ではなかろうか、だから、この頃私が、お話をするよりも、例えば、あなた方が、一生懸命おかげを頂いて、あなた方のお話の方が皆に、かえってこう実感的に頂けるかもしれん。
 まあ、兎に角もちっとあなた方がおかげを受けにゃいけんよと話した事です、どうでしょうか皆さん、この頃私の話しは大変難しい、それは、理解………理屈っぽいとか、丈高いとか、そういうた意味じゃないです、その説く内容が大変難しいという事、いつも、ご神徳に取り組ませて貰う、御神徳を受けさせて貰う、私は、教祖様のすべてが、おかげにつながらねば、駄目だと思ってます、只、判らせるという事だけでなくて、それがおかげにつながる、お徳につながるお話でなければいけない。
 昨日も私は、ある先生の、大変有名な先生の書かれた教話集を読ませて頂いた、天地金乃神様というお方は、昔から出来た神ではない、いや、昔からある神ぞという御教えがありますね、だから、天地は流行る事もなければ終わる事もない、天地日月の心になること肝要だという御教えを、懇懇と親切に説いてございます。
 だからその、天地金乃神様のご性格とか、天地金乃神様という事の説明は、実に見事に説いてございます、けどあの御教えの一番肝心なところは、天地日月の心になること肝要だという事でしょうが、所が、そこになって来るとです、それは、私には判らないとしてあります。
 これはもう大変な事らしいけれども、私共には判らない、まあ私共が手前で判る事は、天地日月の心と云うのは、正確無比、だから正確な、実意丁寧な、信心をせねばならないと云うところ迄は判るけれども、それがどう云うものであるか判らないと云う、御理解十節まで理解づけてある本を頂きまして読まして頂いとるが、どの一節でも、だから、助かるという事につながっていないのです。
 如何に天地金乃神様が、どんな方であるかという事が、判っただけではね、おかげにならんのです、だから、天地日月の心になること肝要だと、その心になると、和賀心も生まれ、そう云う事になるとおかげを頂かれるという事を合楽ではもう、私はこの御理解だけでも、どれだけあらゆる角度から説いたか判りませんね、天地日月になる事を。
 だから、その天地日月の心とはこういう心だ、それに取り組むためには、こういう風に取り組まねばいけない、それを受けるとこういうおかげになるのだと、まあ、云うなら微に入り細にわたって、合楽では皆さんに、聞いて頂いとると思うです。
 ところが、皆さんはそれを聞いておるだけで、徳にも力にもしていないという事が、事実を最近皆さんの上に感ずる時、私のは、これはあまりに難しすぎるのではなかろうかと思うですね、けれどもやはり、これは、説いとかねばならん、私が、神様の叡知に触れて、神様のお知恵に触れておれれる時に、これは、皆の説きえない深いところえ触れていかなければ、後で、本気で信心する人達の為にも、やはり、触れとかねばならない。
 そこで、もっと手前の所を通っておる文男先生、あなた達が、お話した方が、皆の実感的に、共鳴を得るのではなかろうか、と云った話しを昨日させて頂き乍らです、思うて見れば思うて見るほど、私の場合は先ずお徳を受ける事の為の信心、説明をさせて頂いておる。
 今日の御理解でも、理屈で判るところ一番最後の人の難儀を助ける事が有り難い、という一番大事なところを説いて頂いた、なら、人の難儀を助けるという事は、形の上もあろうけれども、所謂心で殺す事が出来る、そう、神様が見ておいでられる、だから重い罰、重い刑を受けるのだと、だから、心を助けるという事は、それとは反対に、神様のお喜びを受ける事が出来、神様のご信用を得る事が出来、所謂お徳を受ける事が出来るのだ。
 人の難儀を助ける事が有り難いと心得て信心せよ、果たして、人の難儀を助ける事が有り難いと心得て信心しとるだろうか、そこが判った時に心で助けれる私に、先ず、私自身が心を助けられねばならない、その修行として今、例えば中間的に申しました様に、天地日月の心になること肝要だという事でも、噛んで含める様に、天は与えて与えてやまないものだから、限りなく美しうならなければいけんという働き、そういう稽古、地はもう、受けて受けて受け抜いていく心であるから、もうどの様な場合であっても、御事柄として受けて受けて受け抜いて行く様な思いで頂け、日月の様な正確無比の、所謂、実意丁寧なものを、自分の日常の生活の上に表して行こう、身につけて行こう、というそう云う事に例えば本気で取り組ませて頂く事によって私が助かる。
 初めの間は、受けて受けて受け抜くという事は、大変難しい事であったけれども、受けなければ、馬鹿らしい事になってきた、受ける事が有り難い事になってきた、受ける事が相手を助ける事につながってきた、という風に体験付けられて来るのですから、素晴らしい事になって来るのですけれども、果たして、皆がそれを行の上に表す、昨日、文男先生が云ってきました。
 21日の月次祭に、今朝の御理解は、どう云う事でしたかという質問にと云って皆、集まっとるのに、えぇと今日の御理解はどげな風にと、誰も説明出来る者がいなかった、麻生さんが、枝葉の様に、私が申しましたここんとこだけは、今日の御理解のところだけは覚えときなさいよと云うところだけは覚えとった。
 あの梅の花の信心と、桜の花の信心ですね、あの、21日の日、梅の花というのは、お徳と受けていく信心、桜の花というのは、只、おかげだけを願っていく信心、だからそれは必ず散る、梅の花は散っても、後は実りになる、徳になる、という信心、そこだけは、まあそれだけでん、まあ大した事だと云う訳で、そこからお話が進められたという話しを聞きました。
 けれども、本当にどこにどう頂いて帰っただろうか、朝頂いた事は、行の上に表して、それと取り組んで、4つに取り組んで行ったら、何かが、そこに生まれとらんならん、そこんところをです、お互い疎かにしてはおらんだろうかと思うんです。
 皆さん、人が人の難儀が助かるという事がね、有り難いと判からして貰う信心、それが、先ず自分が助からなければならない、助かってしまうという事ではない、心が信心になり、こんなに難儀な事、こんなに悲しい事と思うておった事がです、それが有り難いと判からして貰う信心、それを難儀と感じないですむ信心。
 その事だけでも素晴らしい、世の中に同じ様な事で苦しんでいる人があるならば、それを伝えても行かねばならない、それを祈らねばならない。
 昨日、吉井の波多野さんがお参りして見えて、昨日は先生突然四国に居ります、妹さんの婿さんが尋ねて見えられて、仕事の事でこっちに見えた、そして、色々お話をしている中に、結局は話しをしておると、ついつい信心話しになります、相手も熱心に聞いてくれますので、一生懸命で話しをさせて頂いておるうちに合楽の信心の所謂、5つの願いの事を、今、合楽では、この5つの事を一生懸命取り組んでおります、と云うて、その内容を話したら、目を輝かして、お姉さん何という素晴らしい教えですかと云うて、関心して聞いて帰ったという。
 人間誰しもが願う事、しかも願って止まないおかげを頂きたい、その願いがそのまま、天地金乃神の願いでもある、だから、これを願う事がなんのやましい事であろうか、これがおかしい事でない、低級な事でない、これがもう最高の事だ、天地金乃神様が願いにしておられる、体の丈夫を願わして頂く事も、家庭が不和でない、円満である事を願う事も、愈々家繁盛を願い、子孫繁盛を願う事も、折角させて頂いとる御用が  食わん為に働いておるのではない、人の為にも社会の為にも、神様に喜んで頂ける様な内容の御用仕事、仕事とは事に仕えると書いてある、その事に仕える精神を頂いての、御用にならなければならない、愈々御神願成就のおおみかげを頂かなければならない、天地金乃神様の願いがある、人間氏子にかけられる願いがある、その願いがです、成就して行く事の為のお役に立ちたいの一念がです、5つの願いに込められてある、為にはこういう修行もさせて頂いておる。
 こういう信心もさせて頂いとるという話しをさせて頂いたら、なんと素晴らしい祈りの内容がね、しかもそれが神様の願いであってみると、神の願いと氏子の願いがここに一つになる、さあこの事だけでも皆さん一心に願っておられたらね、お徳を受けるです、その5つの願いでも、只、通り一遍の願いじゃいけん、真実そのおかげ.………だから、最近風を引きました、腹が痛いと云うと、そりゃ、あんたどんが真剣に祈りよらん証拠ばいと云うて、私は先ず第一番に申します。
 体の丈夫を本気であんたが願いよらんからたいと云う話しなんです、そういう風に私が、口を酸うして皆さんに度々聞いて頂いとる事すらが、身についていない、それを人に伝える事すらが出来ていない、とするならです、人の難儀を助ける事が有り難いと心得て信心していないという事になる。
 昨日でしたか、そこの合楽食堂の中村さんが、親先生、野口さんがいつもいいござってもう中村さん、もう合楽教会大発展さえ願っとけば、もう家の事は神様が見て下さるよと、もうこの事を本気で願うたら、店の繁盛の事は神様が見て下さるよ、と云われておったのを思い出して、ようやく一昨日からそれを始めましたら、早速おかげ頂くから、大した事です、合楽教会大発展は、願うという事は、人の難儀が助かる事につながる事なんですよ。
 この夏の修行から、ある教会の熱心なご信者さんが、今、毎朝参って来て、今も参って来ております、その方がこの二、三日前から、自分の親教会である、おかげを頂いとる教会の事を一生懸命に願われる、お取次ぎを頂かれて、だからせめて、そういう手近の所からでもです、私、信心させて頂く事によってです、私が助かる、人の事を願われる、公の事が熱心に願われるという事は、自分が助かって行きよらねば、願われる事ではないです、もう本当に、野口さんという人は偉い人でしたよ、親先生、もう本当にこればいつも云いよんなはった、それから聞きよったばってん、聞き流しとる。
 今朝、私はご神前で頂く事はね、テレビの何か、歯磨きの何か宣伝をやっておるのにね、あなたよく磨きなさらんと、歯槽膿漏になりますよか何か、家内が云いよる、そしたら、判ってるよというテレビがありますね、兎に角判ってるよと、云いながら判っていないのである、親が勉強しなさい勉強しなさいと云われると、やかましい、云わんでんする、と云いながらしよらんのです。
 ならここで私がそう云いよる、勉強しなさい、勉強しなさいと云いよるけれども、なら実際は勉強はしよらん、ここは信心の稽古に通うて来るところと云われるのに、実際は、通うて来よらんという事、稽古に。
 昨日の御理解じゃないけれども、只、おかげにだけは四つに取り組んどるけれども、その問題に信心を通して、取り組んでいないから、良いものは生まれないという、昨日の御理解でしたね、やかましい、おまえがやかましゅう云わんでもちゃんとする、と云うてしよらん、勉強せれ、勉強せれてやかましか、ちゃんとしよると云い乍らしよらん、だから、これは、私が云っておる事があまりに難しいから、仲なか行の上に表す事は出来んのだろうかと云うて、まあ、夕べ文男先生と話した事ですけども、親先生、皆が判っちゃ行きよりますとじゃけんで、何かのきっかけが出来たら、する事でしょうという様な事でした、だからもう、判っとるだけでも良いのです、何かの機会に、けれども、本気で、それをもって四つに取り組んで、稽古をさせて頂かねばならん。
 人の難儀が助けられるという事は、只、手を貸してやる、金を貸してやる様な事ではなくてです、心を貸してあげられる、所謂心で殺す罪が重いのなら、心で助けるのは、又それとは重い罪所じゃなくて、反対の、神様から、報奨を受けられるほどしの事なのです、心で助けるという事は。
 なら心で助けるという事を、今日は信心で助けるという事を申しました、信心する心をもって助ける、それが有り難いと心得て、それは、〇〇教会の方がです、教会の為に、お初穂包んで願われるという事は、何か馬鹿らしいごとある、自分の事こそ一生懸命願わんならんばってん、合楽教会の事を願う事は、それだけ実感に湧かないというところに、信心の貧しさがある。
 それを願わねばおられないというところには、もう自分自身、自分一家が助かっておると云う様な、体験が生まれて来るほどしの信心を頂かなければ。
 そう云う事を今日は、人の難儀を助ける事が有り難いと心得て、心得ての信心せよと仰せらる所に焦点をおいて、今日は聞いて頂きましたね。       どうぞ。